「初めまして、キム・ウォニョンと申します。韓国から来ました」
取材場所であるカフェにて、私たちを笑顔で迎え入れてくれたウォニョンさん。今回、一般社団法人K-BOOK振興会主催イベント【車椅子で韓国からやってきたウォニョンさんと考える:「バリア」ってなんだ?】のために来日されました。韓国書籍の翻訳・出版などを手がける株式会社クオンのご協力のもと、お忙しい中取材をさせていただけることになりました🙌
作家、弁護士、パフォーマーなど多彩な活動をされるウォニョンさんが考える福祉のこと、共生社会のことなどについてお話を伺いました!
インタビュアー:ぺぇたぁ、ひかるこ(上智大学学生記者クラブ)
<プロフィール>
1982年生まれ。骨形成不全症のため14歳まで病院と家だけで過ごす。
小卒認定試験に合格し、障害者向け特別支援学校の中等部、一般の高校を経て、ソウル大学社会科学部社会学科を卒業。同大学ロースクール卒業後、国家人権委員会で働く。現在は作家、パフォーマー、弁護士として活動している。
著書に『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』(五十嵐真希訳、小学館)、『希望ではなく欲望―閉じ込められていた世界を飛び出す』(牧野美加訳、クオン)。共著に『人文医学』、『サイボーグになる―テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』(牧野美加訳、岩波書店)がある。
ウォニョンさんについて
本日は取材させていただきありがとうございます。まずは、自己紹介をお願いします。
キム・ウォニョンと申します。もともと弁護士からキャリアをスタートして、国家人権委員会で調査官をしていました。
病院や障害者施設、高齢者施設などで差別事件や人権侵害のケースを担当していたほかに、政策の研究や勧告なども行い、一般的な法律事務所でも働いてきました。
その後、2017年ぐらいから本を書き始めて、弁護士としての仕事をほとんど辞めました。自分のなかの中心が、弁護士から作家やパフォーマーの仕事に変わったので、今は作家や舞踊家として自分のことを紹介しています。
ウォニョンさんは作家として、またダンサーとして活動されていますが、どちらも表現をするというところが共通していると思います。作家としての表現とダンサーとしての表現でそれぞれ共通点であったり、違うところであったり、意識して取り組まれているところはありますか。
作家としては、私のアイデンティティを社会関係や社会の問題、 個人的・社会的な記憶と結びつけて、それを伝えるための適当な表現を探すことが重要だと考えています。どうやってそのメッセージを読者に伝えるかということに1番興味があります。
作家として書く時ももちろん率直には書いているんですけれども、ダンサーとして踊る時には、障害のある身体を隠すことができない、その身体と向き合うよりほかない活動なので、作家としての活動よりも勇気がいります。ダンスはオブラートに包むことができないものなので、文化とか知識の力に頼ることなく、そのままの自分で他人に会っているように感じます。
多様な真実で他者と出会う
私たちもフリーペーパーを作ったり、記事を書いて発信したりしていますが、その背景には人々の無関心さを少しでも取り除いていきたいという思いがあります。差別であったり偏見の背景にある無関心さに向き合っていくことが大切だと私たちは考えていますが、どのようにしたら、そうした無関心さに向き合っていけると思いますか。
現代社会の中では、いろいろな情報や事件など人々の関心を引くものが多すぎるので、人々の無関心っていうのは、差別の気持ちではなくて、そうしたほかのことに関心が向いてしまうせいでもあるんじゃないかと思います。
こういう風にフリーペーパーとかウェブで情報発信して、人々と向き合う試みもすごく重要だし、やるべきことだと思うんですけど、 コロナ禍を経てこうやって直接対面する機会が減ったからこそ、対面する機会っていうのも非常に重要だと思います。
例えば、今日お会いしてこのフリーぺーパーをいただいて、フリーぺーパーを書いた人にも会ったし、どんな内容かなって気になって関心を持ちますよね。
それと同じように、YouTubeとかオンラインの配信は、 拡散する速度や力も大きいんですけども、今日のように直接会う機会とか時間をつくるのが大事ですね。
現状ではバリアの問題などもあり、どうしても直接会ったり外に出たりすることが難しい方々がいます。私たちはそうした方たちのことを知ってもらうことが必要だと思っていますが、そのためには人々の注意を引かないといけないのではないか、という思いもあります。ウォニョンさんはご自身で作家やダンス活動をする中で、注目を集めるために本来の自分を見せられないといった葛藤を感じることはありますか。
もちろん注意を引きたい、人々の関心を引きたいっていう思いはあるし、人々が好きそうな、 興味を持ってくれそうな話を発信したらいいのではないかという気持ちはあります。
ただ、自分の中に何か1つの真実があって、それをそのまま見せるか、ちょっと変えてみせるかという問題ではなく、どんな人に会うかによって自分の中で真実が変わってくる、多様化するんですね。例えば、ぺぇたぁさんに見せたい自分の何かっていうのと、また別の人と会った時に見せたい何かっていうのは、変わります。
さっきの話とも少し関係がありますが、多様な人と長い期間、 何年とかじゃなくても、何日でも何時間でもいいから会って話をしたり聞いたりする時間が、自分の多様な真実をいろんな話で表現するのに役に立ちます。
作家としても一般的な読者を想像して本を書くと、何も正直に書くことができないと私は考えています。一般的な読者ではなく、 特別な読者、例えば私がぺぇたぁさんに手紙を書くような感じで、 特別な経験や文化的な背景を持つ、今どこかで暮らしている特別な読者を想像して、その読者の批判とか、好みにもっと注意して書くと、ユニークなエッセイや記事が書けると思います。
ウォニョンさんがされているダンスパフォーマンスでは特定の誰かに届けるということを意識されているのか、それともありのままの自分を見せ、それをどう感じてもらうかを人々に委ねているのか、どちらを意識してされていますか。
特に具体的な関係を想定してダンスしてるわけではないんですけど、公演する時ってその時間、場所が1回限りの限られた場所じゃないですか。それで、そこに誰が来るのかっていうことじゃなくて、そこにいる中で、 その空間や時間を変えることを意識しています。
規範から外れたところで互いを知る
私たちは大学での学びのなかで、マジョリティが自分の特権に気付くことの大変さを感じています。ウォニョンさんは、先ほどダンスを通して自分の身体と向き合わざるを得ないとおっしゃっていましたが、ウォニョンさんが考える、自分について知るということについて伺いたいです。
自分を知るために、1人で踊るのではなくて誰かと一緒にダンスをしたり、ワークショップや公演をしています。ワークショップでは Contact improvisation という方法をとっています。これは相手の身体のどこか一部分に触れることをしながら、即興で一緒に踊る方法で、このプログラムをすると他人の動き方の特徴とか、他人の身体の固有性を強く感じます。私は障害がある人ですから、一般的な生活においては私の身体はいつも特権とは遠い存在で、マイノリティとアイデンティティの根拠は常に私の身体にあります。でも、同じ空間で日常とは違う動作をいろいろやってみると、相手が非障害者であっても、その人の痛い部分や、動かせない部分、心理的な恥ずかしさから動かせない部分など、身体の弱点を知ることができます。であるなら、特定の条件下では、障害のある私の身体もいわゆる「マジョリティ」に該当する特性を持てるかもしれないと思っています。
Contact improvisation(コンタクト・インプロヴィゼーション)
振付家でダンサーのスティーヴ・パクストンが始めた、重力を意識しつつパートナーと身体の接触を続けるデュエット形式が中心の即興パフォーマンス。
https://artscape.jp
一般的な生活だと社会的な規範というのもあるので、強者と弱者の関係性がありますが、特別な状況、例えばダンスをしてる時や、こうして外国語で話した時とか(ウォニョンさんは今回のインタビューのほとんどを日本語で答えてくださいました)、日常の規範から外れたところに自分の身を置けば、自分が知らなかった特権とか、強く見えてる人の弱い部分が見えたりとか、 いろんなことを知れるようになります。ですから、ワークショップをしたり、他の人と話したり、ダンスをしたり、ご飯を食べたりすることで、自分の弱みや強みを知り、相手を知る、理解することができると思っています。
Becoming-dancer_Trailer.ウォニョンさんは2022年8月のドイツのダンスフェスティバルTanzmesse(タンツメッセ)で、「Becoming-dancer」というパフォーマンス作品を披露されました。
身体を通じた相互理解は共生社会を考えるうえで重要なポイントであると思います。ただ、共生社会を目指すという未来志向だと、私たちが今この瞬間感じているバリアであったり差別に人々の意識が向きにくいと感じています。規範から外れたところで人々と関わっていくことが、相手を知るきっかけに繋がるとおっしゃっていましたが、当事者の抱える問題に人々が気づき、一緒に考えていくためには、どういう意識を持つべきだと思いますか。
これは私にとっても大切な質問で、ずっと考えています。まだその答えは出ていないですけど。
命題的なこと、説明書に書いてあるようなそういう知識で伝えるには限界があります。例えば、泳ぐことや自転車に乗る方法のようなことを言葉で説明するのは難しいですよね。これは身体を通じて学ぶ知識です。それと同じように、お互いに自然に学んでいけるような身体を作りあげていくことが重要だと考えています。
ぺぇたぁさんが車いすに乗っていて、介助者がその車いすを押しているという状況があったとします。ぺぇたぁさんの知り合いが2人のことを発見して、ぺぇたぁさんと後ろから声をかけたらあなたと介助者はどのように反応すると思いますか?
「介助者が車椅子を押しながら旋回して後ろを振り向く」ですかね?
そうですね。でも、普通は誰かが後ろから声をかけたら、介助者だけが首をひねって後ろを向いて反応するんです。そうするとぺぇたぁさんは前を向いた状態のままなので、後ろで何が起こっているかわからないんですよね。それが自然な反応なんですよ。
もしぺぇたぁさんと介助者が一緒に振り向いてその人と目を合わせたら、3人が友達になって仲良くなることができますよね。でも介助者の人だけが後ろを振り向いたら、介助者の人はその人と友達になって、仕事が終わったら一緒に飲み会に行くかもしれませんが、車椅子に乗っているぺぇたぁさんは1人のままです。
ですが、共生を学んだ身体は、どんな状態でも車椅子と一緒にターンをします。この動き自体はとても簡単なことですが、そういうことを介助の研修の時に教えたりはしないですよね。この動きは共生の段階に進んでいる人が学べる身体の動きです。私はそんな知識が社会の中にたくさん溢れることが本当に重要だと思います。そういった命題的知識ではない、身体を動かすことでしか学ぶことのできない知識をどうやって発展させていくかという活動に私は興味があります。
生きにくい社会から共生可能な社会へ
当事者とそれ以外の人が一緒に過ごしていくためには、当事者が社会に出ていくということが前提になっていると思います。しかし、物理的なバリアや社会制度の問題が立ちはだかって、 社会に出ていこうという気力をそがれてしまったり、勇気をなくしてしまう人もいると思います。
日本とか韓国の社会ぐらいであれば、勇気を出せる基本的な条件が備わってると思うんですね。まだ問題はたくさんありますけど、グローバルスタンダードで見ると東京やソウルのようなところは基本的な条件は整っていると思います。もちろん、そもそもグローバルスタンダードが低いという問題はありますが。
ただ、基本的な条件は備わってるとはいえ、まだ外に出て人と会うのは勇気がいるし、エネルギーもいるし、いろんな人に頼み事もしないといけないので大変です。自分と同じ条件を持っている人が外に出てる姿を見るのは、すごく大きな力になるし、例えば、自分が書いた本を読んで、誰かがそれによって力を得るとか、もしそうなったら嬉しいです。でも、そういうことよりは身近な人が、ちょっと今日外に出ようよって言って最初の1歩、外に出る勇気を与えてくれたら、それが力になるし、誰がその1歩を踏み出すのを手伝ってくれるかっていうのが重要ですね。
日本も生きにくい世の中であると言われています。そうした生きにくい社会の中で、 私たちが、お互いのことを気遣えるような社会にしていくために、どのように他人と、自分と向き合っていくかということに関して、皆さんに向けて伝えたいメッセージがあればお願いします。
私が大学生のころには障害者運動がラディカルに行われていました。その時は、差別禁止法や特殊教育法※がなく、大学では障害学生の支援がありませんでした。それで私たちは学生として大学と闘ったり、差別禁止の法律を作るための運動をしていました。
※障害者等に対する特殊教育法
2007年制定。それまでの障害者特殊教育振興法から全面的な法改正が行われ、大学内に障害学生支援センターが設置されるなど、障害児・者の教育権の確立やインクルーシブ教育が方向づけられた。https://www.nise.go.jp/cms/6,11119,13,257.html
私の弁護士という仕事もパフォーマーとしての仕事も、差別禁止法がなかったらなるのが難しいものでした。でもその法律ができた後、法律上は統合社会(インクルーシブ社会)であるとされていますが、発達障害者や重度障害者はまだまだその社会の中に含まれていないと思います。法律はとても重要ですが、それだけではできないこともあります。アメリカのADA法(障害のあるアメリカ人法)も社会統合が目的で、 障害者と非障害者の共生が理念ですから、公式的な活動、例えば学校や職場などでは一緒に過ごすことができます。でも職場や学校の時間が終わったあと、障害のある人は家に帰るけども、非障害者は旅行に行ったり、飲み会に行ったりしますよね。それで私は今、法律以外の部分でどうやって障害者の生活を作っていけるかというところを考えています。
いろんな瞬間がいっぱいくっついてるのが人生みたいなものだと思っていて。例えば、この場も舞台だとしたら、その舞台の中で、いかにほかの人と会うのかとか、その人と自分ができることを何かしていくということを考えています。社会福祉を専攻されているので、そういう政策とか制度を勉強することももちろん大事だけれども、こういう小さな瞬間をいかに共生可能な瞬間にしていくかということに集中していくことも必要なんじゃないかと思います。自分も失敗を繰り返してるけれど、そういう訓練は必要ですね。
インタビューを終えて
今生きているこの瞬間を舞台と捉え、規範から外れたところに身を置いて、互いを理解をしあいながら共生を学ぶ身体を作りあげていくこと。
表現者であるウォニョンさんからのメッセージに、インタビューさせていただいた私たちも励まされ、勇気をもらいました。
本当にお忙しいなか、取材へのご協力ありがとうございました!
次は韓国でお会い出来たら嬉しいです!
日本語にも翻訳された、ウォニョンさんの書籍はこちら👇
『希望ではなく欲望―閉じ込められていた世界を飛び出す』(牧野美加訳、クオン)
『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』(五十嵐真希訳、小学館)
『サイボーグになる―テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』(牧野美加訳、岩波書店)
コメント